アニメ、ゲームと核

7 月 27th, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

東方projectの作者ZUN氏は、竹本泉の画風に影響された可愛らしいキャラクターと素晴らしい音楽、見事なUIと激しい弾幕、そして独特のゲーム論で知られているかと思います。しかし氏の作品にはときおり背筋の凍るような恐ろしいエピソードが挿入されます。例えば東方Project第9作、東方花映塚。
本作のストーリーは公式を参照のことですが、本作の楽曲の一つに「六十年目の東方裁判」という曲があります。本作が発表された翌年の2005年は日本の敗戦から60年目にあたります(東京裁判はその翌年です)。また、英語タイトル
Phantasmagoria of Flower Viewはそのまま訳すると「花景色の走馬灯」となります。

近作の東方地霊殿では核が登場しました。
ラスボス霊烏寺空は神からヤタガラスの力を与えられて、核融合を操ることができるようになります。調子にのった彼女は世界征服を企てますが、主人公たちに阻止されます。彼女は見た目からして露骨に原子力発電所を思わせる意匠をまとっています(ちょっと口では説明できません)。

私は古い人なので核が出るゲームというと私は魔界塔士Sagaを思い出します。
たしかそれが発見できるのはシェルターの中です。シェルターの中には餓死した家族の遺体がありましたね。ちなみにSagaシリーズの最後の敵は神です。

また、ガンダムシリーズの近作、ガンダムSeedでも核は一見否定的に扱われていましたが、主人公の乗るガンダムは核動力で動いてました。この奇妙な二律背反が本作における平和主義でした。

日本人にとって核というのはこういったものであるのは怪獣王を例に上げるまでもありません。核はGod(God-zilla)の力なのです。だが、それは同時に禁忌の力でもあるということでしょう。日本人がと書きましたが、核=神となってしまうのはなにも日本だけの現象ではありません。
コバルト爆弾を信仰していた人類の生き残りのお陰で、素敵な猿の世界は無に帰りました(続・猿の惑星)。

おかしなことに、現実世界の核もまた、神として扱われなければ人類に禍をもたらします。私はこの文章を書きながら核と神の類似性に少し青ざめました。祭られていれば世界に反映をもたらすが(原発銀座)粗末にされると恐るべき災厄をもたらす点などはまさしく祟り神です。宗教を否定した共産主義国家で核がいかように使われ、いかなる結果を招いたかは私がいうまでもない。

よって私は、憲法9条改憲にまつわる論争は宗教論争であるといっていいと思っております。そしてなんとも熱かいに困ることに日本のシンボルは超巨大な核融合炉ともいうべき太陽です。評論家の佐藤健志が著作「本格保守宣言」で示したところによれば憲法9条の改正は憲法1条の改正の名目も与えてしまう。よって護憲論者は熱心な天皇制の擁護者にもなってしまうのです。そして逆もしかり。

あの法案が通ると東方projectは単純所持が禁止されるそうですが、ZUN氏は同人ゲームという主題でしか表現できないことにこだわり続けている感があります。

Circles.msについて

7 月 23rd, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

Circle.msに私は最大級の賛辞を捧げたい。わずらわしいサークル申し込み作業が軽減されて非常にありがたい限り。

しかし、サークル検索がもう少しうまいこと働かないものであろうかと思ってしまうのです。どうも現状メジャーサークルにスポットがあたりすぎる。はてなやうごメモ的な格差社会が生まれている気がするですよ。こういうスマイルカーブ問題に旨く対処することを英語でなんていうんでしょうね。よくわかりませんけど。もとよりスマイルカーブが急なことを甘んじて受け入れるしかない気もしますが。というか私はもう悟りの境地でございますけど。自分が好きなものを探すのは意外と難しい。
皆が好きなものを探すのは結構簡単。

これを探すを作るにすると後半が逆転します。

IGDA Sig:Indie 第2回研究会「ゲームデザインとメイキング」 各論

7 月 23rd, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

後半>各論です

○商業ゲームの保守化とインディーズゲームへの期待 小山友介教授

商業ゲームの消費者層の年齢ごとの消費者層だが、日本においては10代~20代が薄く、30代がもっとも厚い。少子化の影響が現れている。

30代はおそらく日本史上最後のベビーブーム世代であった。

海外では逆に10~20代が厚いという。

閉塞感。小山教授の発言の中ではこれが一番心に響いた。

ゲームの大規模化により、最大で1億ドル、日本においても10億円~20億円の開発費が投じられており、エンターテイメント業界の中でもハリウッド映画についで最大規模であるという。

現場は保守化せざるをえないが、エンターテイメントは飽きられたら終わりであり、新しいビジョンを提示できなくなったらその時点で命運を立たれる。

私は思うに同人ゲーム業界も、巨大サークルだけが収益を集め他のサークルは同じ土俵にすら上がれないという状態になりつつある。

同人ゲーム業界も商業ゲーム業界以上に保守化しているのである。そして保守化こそがユーザーの選択であった。

無料でゲームをDLしている子供たちが「DLできるもの」に対してお金を投じるだろうか。

○第二部

○「画面作りから見えるゲームメイキング」 EasyGameStation

こちらのサークルはPhotoshopで画面イメージを組んだ後に製作にはいるとのことだが、それと実際のゲームとのぶれがほとんど感じられない点が脅威だった。最初からゲームについてビジュアルとして括弧たるイメージをもっていたということになろう。

同人ゲームの参入障壁の高さの一つがこれである。ビジュアルイメージを具体化できない。というか、ABAゲームズさんほどのセンスをもっていないと、そういったセンスが必用ということにすら辿り着かないのではないのか。

また、こちらのサークルでは自主開発のキットをいくつか使っているとのこと。

>3Dアニメーションツール、エフェクトツール 既存のビューアーがいくつか存在しているが、それがゲームに乗った際の見え方が変わってしまうために作成されたもの。

>イベントツール

スクリプトでイベントを指定すると動いてくれるツール。こちらの導入前まではディレクターがフラッシュでイベントを作成し、そのとおりにプログラマーがイベントを組んでいたとのことである。

機能的なSOHOを見るような感じであった。でもこれは理想的な同人ゲームサークルの姿というより、ゲーム開発者の夢想する環境ではないのかという気がした。そうした環境を作る能力というのをなんと呼べばいいのだろうか?

○あかんゲームとええゲームかわったゲームの作り方 (神奈川電子技術研究所)

同人ゲームのよい点、というか商業ですいあげられそうな点だけをフューチャーしているのが気になっているところ。

イノベーションが必用というか、イノベーションを発表する場に育てたいというのは理解する。しかし創作というのはイノベーションではない。本当に極論するとイノベーションなどというものは存在しないと私は思っているが。

新しいイノベーションが発掘される場として、同人ゲームの現場に注目している人々がいるとする。だが発掘する側には国から研究費が出る(らしい)が、同人ゲームの現場にはおりてこない。ゲームは創作とはまだ看做されていないのである。

ところで、神奈川電子技術研究所さんについてその後の懇親会や質問の折などに話題になっていたのは工程管理能力であった。

つまりはそういうことである。
イノベーションなど本当はだれも関心がないのではないのか。いや、これは感想が意地悪すぎる。

ちなみに工程管理について、私としては非常に参考になったのが、捨ててもいい部分をつくるといった点であった。

とまれイノベーションに関わる部分での神奈川電子技術研究所さんの講演の内容はとんでもない内容であった。今回はこの発表を聞けただけでも価値があったと思われる。学術的理論をゲームに落とし込んでいく手法には脱帽。うまいとこ理論からゲーム性を抜き出している感じ。

○メンバーの個性を生かすゲーム作り チームグリグリ

ニコニコ動画などのメガサイトを使った宣伝、ユーザーの支援はどの程度のリターンがあるのか。チームグリグリさんとしては商業化までこぎつけはしたが、作品の売り上げには反映されなかったとのこと。

ヒット数というデータはクライアントに売れるが、直売は難しいということか。

ミドルウェア開発とその効果に当る話は興味深いのであるが、ミドルクラスより上の同人ゲームメーカーはやっぱりミドルウェアって作らざるを得ないのだろうか。ゲームそのものより、ゲーム作る仕組みのほうに興味がいく感じはある。それは作り手の集まりとしてはそういうことにならざるを得ない感じがする。

○ゲームルールをデザインするね OMEGA

おめが氏

今回最も衝撃的なのはおめが氏であった。芸人性というか、キャラ立ちの面で。

今後ゲーム作家にはより一層の芸人性が求められると思われる。彼の講演で印象深かったのは、自分のアイデアとユーザーの考えとのずれをどのように発展させるかという点である。その結果おめが氏が辿り着いた結論がシンプルな操作と作り手のコンセプトとユーザーの感じるコンセプトのずれを極力無くす方向性であった。おめが氏が述懐したところ印象的であったのは、自作に関わっていたテストプレイヤーの質の高さであったという。

○HPSプログラムコンテストの紹介と取り組みについて (オニオンソフトウェア)

おにたま氏

本家HSPサイトの方でもあったが、最近になってHSPに衝撃の機能が追加された。そちらについては本家サイトの方で確認していただくとして、HSPコンテストの存在意義などが非常に興味深かった。参加者が若いというのが実に心強い。このハンズフリー感そのものに何か時代を感じる。おにたま氏の活動が若い世代に与えている影響って相当大きいのだなと感じた。

○第三部

ディスカッション

その前に、私は同人ゲームでお金を稼いで何が悪いと考えている人である。

という意味で、東方同人ゲーム界に私は非常に注目していたりする。エコシステムとしてはありだろう。

時間の使い方、モチベーションのありようなど、プロフェッショナルでやる場合に比べてそこのコントロールが重要という話。しかし世界情勢そのものが不穏な中でゲームを作るってのはよほど……という気もする。

ディスカッション内容でだいぶ重たかったのは、市場規模の小ささである。やっぱりローカライズせんとだめなのであろうか。

ということで簡単に第二回を振り返ってみましたが、やはり話されている内容はかなりシリアスであるが、その分面白くはあった。

それにつけてもゲーム産業の産業構造そのものがエコシステムとしてはぎりぎりである(すでに破綻をきたしているところも多い)なので、新しいイノベーションがインディーから出ることを期待するという図式がなんとなく面白くない。

結局労働者を搾取する環境は残り続けるってことではないか。

というかゲームの巨大化だけが世代交代が進まない理由ではない。当の新世代がいわゆる親殺しを望んでいないのだから当然である。

暗い未来を考える。……アニメーションなどはもう産業構造を変えないとやっていけないが、産業構造を変えたとして、その結果業界自体が縮小、もしくは抹殺される可能性は極めて高い。そのために現状を改善していくためにも産業構造外から変革を誘発するというのは実は結構悪くない話ではある。幸いにもゲームにはまだその余地があるということか。

IGDA日本 同人・インディーゲーム部会(SIG-Indie) 第2回研究会「ゲームデザインとメイキング」

7 月 14th, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

前回の日記との間隔の短さに気づいて愕然としてます。この長文マニアの私が数ヶ月ほどは長文を書いてない。これは……僕は死ぬかもしれません。そろそろ禁断症状が出ますね。

本題はタイトルどおりです。
IGDA日本チャプターのカンファレンスに今回も行って参りました。日本において同人ゲームとはプロのゲーム製作者の息抜きなのかいな? いや、息抜きというように簡単なものではないな~。と感じております。えーっとですねー。
ものを作らないと死ぬ人間てやっぱりいます。自分がそうとはいいませんし、自分からそういったことを吹く人間を私はまず信用しないわけですが。

我がサークルの打ち合わせにおいても、つくることに喜びを感じてる人が激減してるのではという話が出ました。その原因は何か愚考するに、やっぱり愚民化教育は着実に効果をあらわしておること、そしてそのもっと根本的な原因として日本人の自己否定性がここ最近に至ってピークに達していることが上げられるかと思います。
日本人がそのアイデンティティを自己否定に求めたのは近代でいえば明治時代からといわれてますが、近年にいたってもはや自己否定によっても自己肯定を感じられないほど自己否定は進んでしまったわけです。
もはや究極の自己否定>自殺するしかないほどに。
話がもはや同人ゲームを離れすぎてると? いや残念ながら文化を語るのなら文化というソフトが走るハードである社会というものを語らざるを得ず、いわんや娯楽産業は文化そのものの「おまけ」:として機能しながら文化そのものの縮図たりうるのです。
フリードマンには悪いですけど世界は用意にフラット化などしません。文化というのは勝手に自己組織化し、自らを文化たらしめるために排他性を持つものなのです。
翻って日本における同人ゲームとは商業ゲームの自己否定なのです。
そして、それ以外何者でもなくなっている。それはちょっと恐ろしいことですわ。

話を変えます。
日本においてクリエイティブ(笑)な行為をするというのは、実は文化へのツッコミをすることに他なりません。
つまりDISです。近年の日本人は媒体と世代を問わず均質化、組織化傾向がめだつため、早い話ツッコミをするやつは大嫌いときてます。そういう意味でクリエイターがもてはやされる、いや、もてはやされなくてもいいですが社会の内側に置かせてもらえる時代というのは、社会全体が自分の現状にツッコミをいれている時代といえるでしょう。ただしそれが適切なツッコミではなく、ヒステリーになってしまうとしたら、もう社会そのものがツッコミに耐えられないほど脆弱化している。つまり文化そのものへの自信が失われている状態といえましょう。

先にも述べましたように文化は自己組織化します。
たとえ個人サークルで作ったオリジナルのゲームでさえ、そもそも作品を成り立たせるためには既存のゲームの文脈を継承しなければならない。そういった文化の踏襲を繰り返し、世代交代のサイクルが作られていくのが、世の常といえましょうか。
しかし近代文明そのものが、過去数万年の人類の文明の自己否定ともいえるものでした。人間はまだ近代文明という文明を伝統化できていないわけです。
実際に近代は伝統にするには問題がありすぎるのですが、文化の自己組織化のサイクルが廻ってくれない限りやがて人類は自らの種を否定せざるを得なくなります。いきなりハルマゲドンはちょっと……ですが、もともとが自己否定から成り立っているために、近代文明は自己否定し続けることを強いられると厄介な性質をもっているのです。評論家の佐藤健志によれば人類滅亡映画は近代文明の所産としてはもっとも自然なもの、ということになるそうですが、いきなりゲームに話をもどすと、同人ゲームは近代のゲームの規模拡大とハリウッド化へのアンチテーゼ。つまりゲームの作り手の自己否定なのです。
先ほどプロの息抜きといいましたが、これは少し怖い息抜きで、自己否定としては中途半端なために、ただの気休めに終わってしまうのです。オルタナティブが出る場としての同人ゲームが期待されながら結局はプロのインサイドワーク活動の発表の場に終わってしまっては、オルタナティブを出すどころかむしろ芽をつぶすことになりかねない。具体的には青田買いや囲い込みを進めた結果むしろ自分たちが積極的にオルタナティブをつぶしてしまうのではないか、そういった二律背反を作り手の方々との会話から感じました。

自分がゲーム製作者であることを実感するために、プロフェッショナルとしてゲームを製作するのではなく、売れなくても名前を変えて同人という媒体でゲームをだすしかない。同人ゲームという市場はそんな否定否定の積み重なった彼岸のようなところなのかもしれないです。

……といったところで、ようやく前文が終わりました。近日中に後半に続きます。

C76 8/15(土)東館 V30a

7 月 7th, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

遅ればせながら出陣報告です。
なぜか7/7中にやりたかった。
サークル名・ギアファクトリーで出させていただきます。

C76 8/15(土)東館 V30a

ウィンドウズ用SRPG・GLCの体験版をもっていく予定です。
その他の頒布物は追ってお知らせいたします。

誰でもいいって実はすごい

6 月 27th, 2009 Posted in Daily | No Comments »

誰がやっても同じことで人よりもたくさんお金を稼げたり人気がでたりするというのは非常に凄いことです。いや、凄いというか目出度いことですな。

とはいえ「重要」だといわれている仕事ほど誰がやっても同じで、流れ作業のように見える仕事こそ職人技がいるのではないかと実は思ってます。

http://plastic000.exblog.jp/tags/Perfume/

じゃあPerfumeはどうかというと、私なぞにしてはワンアンドオンリーのカスタム品ではないことも魅力の一つではないかと思います。アップルのロゴと同じ。
個性というのは連続性をもって評価されるもので、独自性故に受け入れられるものではない。自分の個性を信じたいけど、個性を担保しているのは集団であるのも事実というわけですね。こうした矛盾が今世の中から消えつつあって悲しい。

GLC・1

6 月 26th, 2009 Posted in Game | No Comments »

ゲーム製作をしているサークルのブログなのに半年弱経過して何一つゲームの紹介がないという画期的な運営をしている当サークルですが、いろいろ業をにやした結果、とりあえず画面を載せてみました。
gameimage12

ゲームのフィールド画面です。
このままじゃ解りにくいので、次回は動画を載せますね(動きます)。
ジャンルはSRPGです。多少アクション要素が入っております。

具体的な更新は近日別のページで特集を組んでご覧にいれようかなと思います。

世代交代

6 月 23rd, 2009 Posted in 未分類 | No Comments »

世代交代の成功失敗はシリーズものの命運をわけます。
例えばメタルギアシリーズを思い出してください。
MGSで「デイブ」の物語は終わっているのではないでしょうか。

事実MGS2作目では早くも世代交代が示唆されました。MGシリーズでも(オセロット氏についで)非常に興味深い立ち居地にいる雷電氏の登場です。彼のその後の自虐的な活躍ぶりはご存知のとおり。

……なぜこうなってしまったんでしょうね。ちなみにMGS2はゲーム全体を通じてMGSのやり直しを行うという不可解極まりないシナリオでした。後に残るのは凄まじいまでの居心地の悪さ。
MGS2は非常に不気味な符合の重なり合ったゲームで、本作そのものがゲームの発売に前後して起こったあの事件と非常に重なる点を持っていたということがあげられるかと思います。

とまれ問題は何故世代交代が行われ、なぜ失敗したか。なのですが。そもそも作品がシリーズ化されないと世代交代が問題にはなりません。最初からシリーズ化が想定されている作品もありますが、売れなければ次が出ないのは同じこと。エンターテイメント作品においてシリーズ化は贅沢な悩み(過去形なのがポイント)といえるでしょう。

MGSを例に挙げるまでもなく、世代交代は大抵厳しい評価にさらされます。ドラゴンボールしかり、ガンダムしかり、です。しかし作品の人気が高かったりするとどうしても商業的に続編を作らざるを得なくなる。
そうして二代目の苦労が始まるわけです。

二代目にとっては困ったことに、結構普遍的な作劇のパターンとして、意図的に世代交代の失敗を描く場合もあります。歴史ものならばよくある話なのですが、例えば名君の子息がとんだ暗君になってしまったという話は非常によくあります。そういう話は人間の世界のほろ苦い面を描き出すという意味ではうってつけの素材なのです。
問題は、そうした展開になった作品がそれ以上長続きはしないということですが。

もう一つ、世代交代に纏わる事例の一つとして挙げたいのが聖書です。これは世代交代の不可能性を描くことによってそのキャラクターを際立たせるという掟破りともいえる方法です。

聖書においてナザレのイエス以上のキャラクターは生まれなかったことからもわかるとおり、彼の志は万人に受け継がれたが、聖書においては彼の代りはいなかったわけです。また、イエスはダビデ王家の権利をすべて受け継がれたヤコブの家の後継者でもある(これはイエスがユダヤ教における救世主として期待されていたことの証でもあります)イエスが死後、復活をとげたことによりこの権利は永久に天のものとなってしまいました。しかし、世代交代が行われなかったことにより、まさしく彼はワンアンドオンリーの存在になった……ともいえるのです。
しかし、世代交代が行われなかったことは、一つの世界の終りもまた意味したようです。
聖書と同じようにキャラクターがワンアンドオンリーとなった例としてもっとも適当なのは「北斗の拳」でしょう。世紀末救世主伝説ですし。

ヨハネ黙示録は、未来におけるキリストの再度の復活を描くことによって、もはや起こることのない世代交代を夢見た物語かもしれません。

古典を例に挙げるまでも無く、エンターテイメントの世界を見渡す限りにおいて、世代交代は「失敗」以外の結果は殆ど見られません。と、すると話は世代交代が何故失敗するかではなく、世代交代を考えてまで作品を延命させようとするのはなぜか、ということになってしまうのかもしれません。
とはいえ延命する理由はそれこそ山ほど考えられますが、それでも作品は死ぬのです。考えるべきはそれでも作品(キャラクター)は死ぬということです。商業的な理由で死ぬことが許されないキャラクターでさえ、実は死んでいたという風説が流れることがよくあります。例えばドラえもんの最終回のように。

ではエンターテイメント作品において世代交代は不可能なのか?
実は、それに対する有力な反証が存在します。

それについてはまたの機会に。

IGDA日本 同人・インディーゲーム部会(SIG-Indie)第1回研究会「同人・インディーゲーム開発の現状と課題」

5 月 6th, 2009 Posted in Daily | No Comments »

先日こちらのカンファレンスに参加してまいりました。

以下雑感でございます。

同人ゲームをつくりたい層、つくっている層と、ゲームを作りたい人、作っている層はまったく重なっていない。そのことに対して問題提起が為され、こうした場がもたれたというのは喜ばしいと思いましたが、その問題提起の部分が伝わっていたかには多少疑問が残りました。

ですが、たとえば漫画家はどうか、小説家はどうか。議論さえもされてないのが現状ではないでしょうか。暗い未来を考えて見ましょう。

プロの製作物はユーザーの欲しい物ではなくなり、結果的に売れなくなる。一方アマチュアはノウハウを持ちえず、作品を完成させることができなくなる。アマチュアがプロになるロードマップは形成されないまま、業界が死滅する。

最初は簡単なゲームをつくり、認められ、プロとして発表する、 今はそういうロードマップが無い、という嘆きの声がいくつか聞かれました。そのことに対しての危機感が聞こえてこない。
どんな時代でもゲームを作りたい子はいるだろう。ところがクリエイター予備軍はいない。これはかなり恐ろしいことです。

以下、各公演の個別の感想です。

長健太 (ABA Games)
http://www.asahi-net.or.jp/~cs8k-cyu/
「フリーゲームにまつわる幸せなエコシステム」

動的ゲームとは何か>当り判定のあるゲーム。
墓場へようこそ。
動的ゲームに対して歴史的な定義が発表される。
アジャイルのための、アジャイル。実装し、すぐ捨てる。
スピードが大事。 そこで考えたのが、デザインに金を払うシステムがある国と無い国の差である。

渡辺訓章 (kuni-soft)
http://www.din.or.jp/~ku_/index.htm
「ゆとり開発 ~普通の場所でのゲーム作り~」

あそんでもらうまでの戦略に囚われると楽しくない。
マネージメントとプランニングとリサーチがモチベーションを殺すのこと。
To DoがTo Doを作る。実装は実装の母。実装するための計画づくり。
結局は>
http://www.amazon.co.jp/人月の神話―狼人間を撃つ銀の弾はない-Professional-Computing-フレデリック・P-ブルックス/dp/4795296758
こうなる。

藤崎豊 (フランスパン)
http://www13.plala.or.jp/french/
「同人ゲームサークルの1プログラマとしての過去・現在・未来」

過去は失われ、その結果未来も無いという話である。ゲームの作り手を生み出しているロードマップが今の時代は完全に失われた。今の若者にとってもっとも恐ろしいのは自分で考えること。そして自分ひとりで考えることである。
若者といったが日本人といってもいい。
より具体的なソフトウェア工学の実装の話。階段は一歩づつ。

片岡とも (ステージなな)
http://stage-nana.sakura.ne.jp/
「同人と商業の境界」

「そういう時代だった」
5/5の割合だとして振り切れたらどちらかに振り切れたら同人/商業という自分での切り分け。
>モチベーション維持方法を聴かれた結果、個人営業そのものがモチベーション維持の方法であると切り返す。
※ムービー一本○○○円
長いシナリオは偉くない。
同人でもグレーゾーンを利用して儲けているのは商業。

澤田進平 (筑波大学)
http://www36.atwiki.jp/zengeren/
「『全日本学生ゲーム開発サークル連合』の紹介」

がんばっていただきたいが全ゲって名前はどうだろうか。

ディスカッション
長健太 (ABA Games)
渡辺訓章 (kuni-soft)
藤崎豊 (フランスパン)
片岡とも (ステージなな)
ごぉ (ぶらんくのーと) http://blank-note.sakura.ne.jp/
新清士 (IGDA日本)
七邊信重 (東京工業大学)

ゲームに要求されるリソースと「実装させられている」リソースの極端な偏差。
同人ゲームの制作費の高騰。
ゲームのユーザーが求めてるのはゲームではなくコミュニケーションの代替物ではないか? 必用なのはゲーム性ではなくキャラクターを立たせるための演出であり付加価値の部分だ。txtは長ければ長いほど良い。CGも多ければ多いほど良い。声優は声をあてるべきだ。ところで私が作りたかったのはそんなゲームだったっろうか?

結論>ゲームをつくりたければ、まずゲームをつくること。

参考
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

闇の中

4 月 19th, 2009 Posted in Daily | No Comments »

気が散って仕方が無い人向けのテキストエディター

気が散るものであるが、実際気が散ったからといって、能率が上がらなかったことを後悔しすぎても精神衛生上よくないんだとか。
集中するには集中に慣れることが必要。集中すること自体の気持ちよさを知ることと、集中出来た自分へのインセンティブを与えるのが必要みたいである。
それから、どんなに集中しても集中は途切れるので、こまめに休息をとることが必要。45分に一回とるのがいいともいわれてますね。

それにしてもこちらをつかっているとなんか微妙に背筋がぞくっとするのです。なんだか後ろに誰かいる気分になる。普段はGoogleドキュメントを使ってるんですけどたしかにそちらでは感じない感覚です。白バックだと意外と目が疲れるのでその意味でもいいかもしれません。